記憶を新鮮なままで

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「上げて下げる」「下げて上げる」ことについてのメモになってゆく覚書

書こうとしてること結構溜まってるんだけど取り急ぎ。

信長協奏曲を観ているときにこういう作品の描き方の違いについて考えてていろいろ思いが噴出してしまったので。

 

私はここ最近中島かずきさんの作品を観る機会が増えてきて、といっても種類で見れば三作なのですが、「髑髏城の七人」シリーズ、「プロメア」、「ふたがしら」という3作全て大好きで。

それで時代や場所が著しく他2つとは違うプロメアは置いておいて、髑髏城にしろふたがしらにしろ、この2つの作品かなりハードに描いているんですよ。私の年齢がまだ幼かったら視覚的にも精神的にもきっと耐えられないほどだし、かなりショックを受けると思う、というような描き方をされる。もちろん今だってショックは受けるんだけども、そのハードな状況によっていろんな感情が沸き起こるしいろんな考えも浮かぶし、右脳も左脳も喜んでいる感じがするので私はハード展開のある作品が好きです(辛口料理を好んで食べる人や絶叫マシンに好んで乗る人の気持ちは分からないけれどハード展開なドラマを好んで観る人の気持ちは分かるのです)。戦があれば惨事が起こり、それにより悲劇が起こる、という展開、心の底から辛くなることは分かっているのに激辛展開を待ち望んでいる自分がいる(もちろん最後に清々しさや明るさも少しは求めるけれど)。

そして今度の信長協奏曲、これまで味わってきた激辛に慣れすぎてハードだと感じなかったんです。いやハードな展開も確かにあったし涙も流したんだけど、身が震えるような衝撃というのはなかったんですね。それが良いとか悪いとかではなく、ハードなものを作品の中に置いておく意味について改めて考えてみたくなりました。

例えば特定の話に限らず、昔の日本を舞台にした作品があったとして、ある実在の人物が無惨に死んでしまったという展開が訪れたとして。悲しいけれど、物語が終わった後にその人物について思いを巡らせて実際のその人物についてGoogle検索をかけて、「その人物に起こったちょっと嬉しい出来事」を発見するとちょっと嬉しくなりますよね。あ、この人幸せに暮らしてたんだ、って思う。

ではそれとは逆に、ある実在の人物の幸せな姿を残したまま作品が幕を閉じたとすると、どうだろう。あの人どうなったのかな結局、と思ってGoogle検索をかけて、無残な死に方をしていたらかなりショックですよね。しかもこれが創作物によるショックならまだしも、現実であるからこその辛さがあるんです。こちらの辛さは私には痛すぎるなぁと思います。

上げて落とす、下げて持ち上げる、の話とも繋がると思うんですけど、どっちが良いんだろう。どっちも正しいんだろうとは思うんです。でも私が脚本家だったら後者を書く勇気はきっとない。だからこそ憧れてしまうところはあるけれど、「下げて後から持ち上げる」ことができる人は遠くまでちゃんと見えていて、場をきちんと操ることができる人なんだと思います。

対人関係の話です。誰かや何かを評価したりするとき、私はどうしても実際の価値よりもかなり盛って話してしまいます。「あなたなら絶対大丈夫だよ」「あそこのご飯めっちゃくちゃ美味しいから行ってみるといいよ、期待してて」。上げすぎると間違いなくストンと落ちてしまうことは分かりきっていて、後で失望させてしまうことも想像できるのに、「今この瞬間気持ち良くなってもらいたいワクワクしててほしい嬉しくいてほしい」という気持ちが勝ってしまって、結果自分のいないところで失望させてしまうことになる(自分の目の前にいる人しか幸せにできない、という凪のお暇のゴンさんには共感した)。自分のいないところ、ということは知らんぷりやすっとぼけが効くということでもあって。

逆に、先に下げておいて後で持ち上げる人。後からホッとする方が後味としては良いに決まってるのに、私にはそれができない。「先に下げておく」のときに、自分は相手の目の前にいるから。残念そうにする顔を目の前で見たくないから。結局は自分のことが大事で、相手の気持ちを優先していないということなんだろうけれど、分かっているのにできないなぁと思う。

 

ドラマの話どっか行っちゃったけど、観てる間にとっ散らかしてしまった頭の中の思考の流れをとりあえず書き留めてみた。というメモでした。