記憶を新鮮なままで

こっちでもりんごアイコンです。見たまま聞いたまま感じたままを咀嚼しきる前に留めておきたい。コメントくれるとめっちゃ喜びます。

推しの生き方に救われる話

お久しぶりです、久々のブログ!いろいろ下書きは溜まってるんですけども、書きたいので先にこれ書いちゃいます。

以前からツイッターの方で騒いでいる通り、私には今めちゃくちゃ傾倒してる推しさんがいます。早乙女太一さんです。

早乙女太一」という名前を聞いて何を思うでしょうか。私の身の回りの人たちは「ゴシップの人だよね」って言います。ひょっとするとそういう人って結構多いのでは、と思います。「早乙女太一」と検索するといの一番にゴシップニュースがヒットしますし、これはもう仕方がないことなのかもしれません。いくら「早乙女太一はすごいんだよ!」と声を張り上げたところで、作品や人となりを見たり知ったりしてもらわないとついたイメージが変わることはないですもんね。

私はというと、名前だけはほんのり聞いたことがあったもののほぼ何をしている人なのか知らないまま『髑髏城の七人』(ワカドクロ)という作品を観て、その超絶光速殺陣と迫力に「すごいなこの人!」と思ったのが第一印象でした。その後『髑髏城の七人season鳥』『プロメア』を観て、「クールな中に煮えたぎるほど熱い思いを秘めてる役が上手い人だな」と思い、ふとInstagramのアカウントを覗いたその瞬間が全ての始まりだったように思います。だってめちゃくちゃ楽しそうに笑うし、めちゃくちゃお茶目な等身大の20代男子。そのくせめちゃくちゃ洗練された舞をするし、めちゃくちゃ美しい殺陣をする。勝手にイメージしていた「仏頂面で喜怒哀楽の少ない人」とは対極にある姿がInstagramにはありました。かなりびっくりした。そして不思議な人だなと思った。蓋を開ければ「ふつう」並に楽しい日々を送っていそうなのに、どうして私は彼の笑顔を想像し辛かったのか。人並みにハジけている印象をあそこまで与えないのはどういったカラクリなのか。

それはきっと、「「ふつう」はみんな作り笑いをしている」から。カメラを前にしたり相手に良く思われたかったり場を明るくしようとしたり相手に心配かけたくなかったり自分に自信が持てなかったりしたときに、きっと私たちは意識的または無意識的に作り笑いをしています。「楽しそう」にします。周りのために自分の気持ちをグッと上げます、そしてそれは自分のためでもあると思っています。

でも早乙女太一という人は作り笑いをしていないんじゃないかって思うんですよ。周りのために笑うことをしないし、「だって自分には関係ないから」というスタンスをとる。「クール」「冷めてる」「空気読んでない」いろんな言い方ができます。実際にバラエティ番組では「クールだね」と他のタレントに言われ、自分では自分のことを「冷めてる」と言い、ネットでは誰かに「空気読んで笑え」と叩かれる。でもその全て、単に彼の「自分の気持ちに素直で正直」であるという本質なんだと思うんです。自分の気持ちに素直すぎるがゆえに、自分が楽しくないと思うところでは笑わないし、作り笑いをしないんじゃないか。びっくりするほど正直。制作披露会見での記念撮影なんかでも、口角は笑っていても目が笑ってないなぁっていうものが多い気がする。「笑う」という形を口角にて保って、瞳は正直。「観てほしい」という気持ちが今日のこの特段強い眼光の鋭さに表れてるのかな、と思うときもあります。

これ、私は心底素敵なことだと思います。だって裏を返せば彼が笑っている瞬間というのは、本当に楽しい瞬間だということになるから。自らの感情を動かしてSNSで投稿したり人付き合いをしたりしているのを見たときに、それは誰かへの忖度でも迎合でもなんでもなく、本心からのものだと分かるから。「してあげる」「してくれる」じゃなくて、「本心からする」「本心からされる」行為と行為のやりとりだと分かるから。

これに私は本当に救われました。

私自身、何かをするとき「自分がこうすることであの人はどう思うだろうか」「あの人の喜びのために私は嫌々ながらもこれをする、それは回り回って私の幸せに返ってくる、そう思おう」とまわりくどく恩着せがましく思ってしまう節がかなりあって、誰か他人の目を気にして自分の行動を決定づけてしまってました。これまではその「善いことをしている気分」になれる幸福のおかげで「他人のために自分の思いを犠牲にすること」も苦ではなかったのですが、最近になってその「善いことをしている気分」に対して「自分の犠牲」の負担が重く感じるようになってきていて。つまり、これまでは「いい気分」≧「負担の苦」だったのが、今は「いい気分」<「負担の苦」になってしまって。誰かのために誰かのためにという気持ちのせいで、その「誰か」だけがいい思いをして自分は苦しい思いをするだけ、というのはあまりに息苦しくないか?と思い始めたんですね。自分は衆生を救う仏か何かなのか??いやそんな大層な私じゃないだろう、と思ったときに、もう少し自分を見つめてあげたいなと思ったんです。自分が幸せになれないのに誰かを幸せにしようとして、そうしている自分の不幸せに気付いた途端に「誰か」だけが頑張った私をよそにちゃっかり幸せになっていることに憤る。それって紛れもなく偽善だなって。自分の満足感のためだけに「誰か」を巻き込んで幸せを探して、結局幸せが見つからずにその「誰か」はとばっちりを食らうわけです。

その矛盾と自己嫌悪に苛まれている最中に、早乙女太一のまっすぐさ正直さに直面したんです。誰かのために自分を繕ったりおべっか使ったり、ということを一切しない早乙女さんを見て、そんなことできるはずない、そんな生き方できるはずない、って最初は思いました。でも、私が「生き方」だと思っているものは「誰かに好かれることで自分の道を作る」というものであって、そのために私にはおべっかが必要だったんですね。でも、完全な実力社会に生きてきた早乙女太一にとって、「誰かに好かれること」というのは媚び諂って相手の好意を買うことでは決してなく、努力して稽古して突き抜けることで結果的に人が勝手についてくる、ということだったんだろうと思います。劇団の中で生まれ育ち父親から厳しい芸事の指導を受けてきたからこそ生まれた独特の個性なんだと思います。彼にとっては、自分のために努力して自分のために生きることが、まさに自分の道を作ることだったんだろうと思うんです。綺麗事のように聞こえます。でも早乙女太一の生きてきた道を見てみると、それは綺麗事でもなんでもなくシビアな環境で育った彼の当然の事実でしかないわけです。

認めてくれる大人に対してだけではなくて、友達にしてもそうで、私は昔から広く浅く作り笑いで輪を広げてコミュニティを形成することで自分の居場所を確保してきたのですが、そのせいで心を許せる人にほとんど出会えていない気がします。付き合いを広げたぶんだけ裏切りも一定数受けるわけで、でも全員に対して友達という括り方をするからこそ人に対してあまり信用がおけないところがあります。無意識のうちに疲れます。でも、早乙女太一を見てみると、本当に気楽な人としか一緒にいない、ような気がするんです。彼の言葉には嘘がなくて、「尊敬している」は本当の尊敬だし、「気楽」は本当の気楽だし、「ありがとう」は本当のありがとう。そうやってコミュニティができるんだな、素直って素敵だなって思います。

私は言葉で何かを表現するのが好きだし得意な方だと思っているから、言葉を使って自分に対しても他人に対してもずるいこともたくさんしてきたと思っていて。言葉でそれらしい論を立てて自分の嘘の気持ちを無理矢理自分に納得させたり、誰かに悪いことをしてしまったことに対する言い訳をそれっぽく仕立てて同情を買ってチャラにしてしまったり、そんなふうに言葉でなんでも解決しようとしてきたし、多少無理すればそれは可能だと思ってた。嘘の言葉を沢山使ってきた自分にとって言葉に嘘がない人というのは本当に異種で、そんなことできるはずがないと思ってた。でも早乙女太一の「マイペース」と言い換えられるそのまっすぐさを目の当たりにして、「自分の言葉で話す」ことって可能なんだ、って思えました。もちろんそれには自信と勇気がいるし、私はというと嫌われやしないかとオドオドビクビクして結局自分を取り繕うことに走っちゃう。でもその取り繕うことの無意味さを知っていて、努力の形を感動に変えられたら人はついてくることを知っている早乙女さんは、他を主とせずに自分を自分として見失わずに生きられるんだろうと思います。そして私は早乙女さんのそんなところをものすごく尊敬しています(早乙女さんは人がついてくることを目的に芸事を極めてるわけじゃ絶対ないけれど)。物心つく前から劇団員として育って、その先も劇団員としての人生が決まっていて、というのは自分がブレてしまいそうになるものだと思うんです。見方を変えれば「親のために親が決めた道で生き通す」とも取れるわけですから。でも、自分の感情を閉じ込めるような形になってもブレたりグレたり誰かに自分の人生の責任を取らせるのでもなく稽古を積んで積んで百年に一度の天才と呼ばれるまで努力したということだろうし、自分を生きられているからこそ劇団を一度解散して挑戦の場を広げる、ということができたのだろうし。心底素敵だな、勇気と根気と精神力と生命力の賜物だな、と思います。

早乙女太一のお芝居は感情がどストレートに伝わるところが本当に好きなのですが、それもただ「役である自分」のまっすぐな感情がそのまま出てるからなのかな、と思ったりします。声に、感情が溢れてダダ滑りするようにして乗るんですよ。その話はまた!

早乙女太一を応援し始めてから、自分を見つめ直す機会がかなり増えたように思っていて。影響されたわけじゃなくて、触発されて、というべきかな。本当にありがとうって思ってます。という話でした!

 

追記1 高橋一生に関しては、繕うところが好きなんですよ。矛盾してますが。いかにも人間らしいなと思ってシンパシーを覚えるんです。その話もまたいつか!

 

追記2 早乙女太一にゴシップがついて回ってしまうのは7年前の週刊誌の記事が直接的で絶対的な要因だと思うけれど、娘ちゃん2人が幸せそうに「ママ」「タチ」と両親のことを呼んでる今、そしてその様子を発信してるのが当の茉希さんであるという今、ここまで引きずって騒ぐのは違うんじゃないかなって思ってます。きっと誰も幸せにならないです。余談ですが!

 

追記3 嘘の言葉を並べ立ててしまう自分が嫌になる!自分の書く言葉がイヤ!(意訳)みたいなこと書いてますが、今こうして書いたこのブログは早乙女さんに感化されたおかげでほんとの気持ちで書こうと思えたものだし、ほんとの気持ちで書いてるし、そしてこうして思いを吐き出すことができて順序立てて自分が早乙女さんにここまで惹かれてる理由がなんとなく分かってスッキリして落ち着いたので、やはり私は言葉が好きだし言葉に生かされてるのだな、と思うのです。

「上げて下げる」「下げて上げる」ことについてのメモになってゆく覚書

書こうとしてること結構溜まってるんだけど取り急ぎ。

信長協奏曲を観ているときにこういう作品の描き方の違いについて考えてていろいろ思いが噴出してしまったので。

 

私はここ最近中島かずきさんの作品を観る機会が増えてきて、といっても種類で見れば三作なのですが、「髑髏城の七人」シリーズ、「プロメア」、「ふたがしら」という3作全て大好きで。

それで時代や場所が著しく他2つとは違うプロメアは置いておいて、髑髏城にしろふたがしらにしろ、この2つの作品かなりハードに描いているんですよ。私の年齢がまだ幼かったら視覚的にも精神的にもきっと耐えられないほどだし、かなりショックを受けると思う、というような描き方をされる。もちろん今だってショックは受けるんだけども、そのハードな状況によっていろんな感情が沸き起こるしいろんな考えも浮かぶし、右脳も左脳も喜んでいる感じがするので私はハード展開のある作品が好きです(辛口料理を好んで食べる人や絶叫マシンに好んで乗る人の気持ちは分からないけれどハード展開なドラマを好んで観る人の気持ちは分かるのです)。戦があれば惨事が起こり、それにより悲劇が起こる、という展開、心の底から辛くなることは分かっているのに激辛展開を待ち望んでいる自分がいる(もちろん最後に清々しさや明るさも少しは求めるけれど)。

そして今度の信長協奏曲、これまで味わってきた激辛に慣れすぎてハードだと感じなかったんです。いやハードな展開も確かにあったし涙も流したんだけど、身が震えるような衝撃というのはなかったんですね。それが良いとか悪いとかではなく、ハードなものを作品の中に置いておく意味について改めて考えてみたくなりました。

例えば特定の話に限らず、昔の日本を舞台にした作品があったとして、ある実在の人物が無惨に死んでしまったという展開が訪れたとして。悲しいけれど、物語が終わった後にその人物について思いを巡らせて実際のその人物についてGoogle検索をかけて、「その人物に起こったちょっと嬉しい出来事」を発見するとちょっと嬉しくなりますよね。あ、この人幸せに暮らしてたんだ、って思う。

ではそれとは逆に、ある実在の人物の幸せな姿を残したまま作品が幕を閉じたとすると、どうだろう。あの人どうなったのかな結局、と思ってGoogle検索をかけて、無残な死に方をしていたらかなりショックですよね。しかもこれが創作物によるショックならまだしも、現実であるからこその辛さがあるんです。こちらの辛さは私には痛すぎるなぁと思います。

上げて落とす、下げて持ち上げる、の話とも繋がると思うんですけど、どっちが良いんだろう。どっちも正しいんだろうとは思うんです。でも私が脚本家だったら後者を書く勇気はきっとない。だからこそ憧れてしまうところはあるけれど、「下げて後から持ち上げる」ことができる人は遠くまでちゃんと見えていて、場をきちんと操ることができる人なんだと思います。

対人関係の話です。誰かや何かを評価したりするとき、私はどうしても実際の価値よりもかなり盛って話してしまいます。「あなたなら絶対大丈夫だよ」「あそこのご飯めっちゃくちゃ美味しいから行ってみるといいよ、期待してて」。上げすぎると間違いなくストンと落ちてしまうことは分かりきっていて、後で失望させてしまうことも想像できるのに、「今この瞬間気持ち良くなってもらいたいワクワクしててほしい嬉しくいてほしい」という気持ちが勝ってしまって、結果自分のいないところで失望させてしまうことになる(自分の目の前にいる人しか幸せにできない、という凪のお暇のゴンさんには共感した)。自分のいないところ、ということは知らんぷりやすっとぼけが効くということでもあって。

逆に、先に下げておいて後で持ち上げる人。後からホッとする方が後味としては良いに決まってるのに、私にはそれができない。「先に下げておく」のときに、自分は相手の目の前にいるから。残念そうにする顔を目の前で見たくないから。結局は自分のことが大事で、相手の気持ちを優先していないということなんだろうけれど、分かっているのにできないなぁと思う。

 

ドラマの話どっか行っちゃったけど、観てる間にとっ散らかしてしまった頭の中の思考の流れをとりあえず書き留めてみた。というメモでした。

高橋一生が好き!!!!!!

高橋一生が好きだな〜という書き置き。

高橋一生のファンを2年前(直虎の中盤くらい)からやってるんだけど高橋一生は多方面にしっかりしてて安心感安定感があるのに冒険したがっているところが好きです。私が推す人やキャラでもなんでも、能力が高く尊敬を集めやすいからこその陰りがあるのに少年みたいにいつも瞳が煌めいているようなタイプを推しがちなんですが高橋さんもそれに当てはまるんですね。興味の範囲が広く、その興味から全て知識を吸収して自分のものにすることで自分をアップデートしていく高橋さんはどんどん豊かな人になってる感じがして物凄く好きです、憧れる。

堂々とは言わないけど私は高橋一生を全肯定するファンではないので高橋一生の好きなお芝居とうーんっていうお芝居があるんですね。好きなお芝居は直虎の政次やお暇の慎二のような自分の思いと行動とが乖離してしまうようなキャラクターで、このタイプのキャラをここまで魅力的に生きられる人はいないんじゃないかと思ってる。

政次のときに高橋一生の芝居ヤバいな、って思ってインタビューをネットで漁りまくったのですが高橋一生、熟考するタイプだ…そしてその考えはかなり組み立てられた高度なやつだ…しかもそれをモノにして自分の中に積極的に落とし込めるタイプだ…というのが分かってこの人、頭良すぎないか???と思ったんですよ。地頭がめちゃくちゃいい人だぁ…と思って憧れたり羨ましく思った。なんなら盗みたいと思ってこの人の思考回路がどんどん気になって、高橋一生が喋ってるインタビューはどんな雑誌であれお小遣い叩いて買い漁ってなるほどなるほど…と思ったり時には感激して泣いてしまったり(ガチ)、もう宗教かって思うくらいに高橋一生という人に夢中になってしまったんですね。高橋一生の話す言葉に対しては一つ一つ本当にふむふむなるほどなぁ勉強になります、というスタンスなんだけどその一つ一つの言葉が高橋一生のあの芝居への大きな説得力になっている。その大好きなお芝居と高橋一生の口から出る言葉とがカチッと合致することにも感動して、この人のお芝居をずっと見てたい!!って思いましたね。

それこそ政次の能面の話なんてハァ〜〜〜ってため息が出た。見ようによっては喜怒哀楽どの表情ともとれる能面を意識して政次を演じたしその能面の特性は自分のペットの犬からヒントを得た、というのもね…そして僕能面が好きなんです、と言うんだからこの人のアンテナと好奇心と実践力と適応力が半端でないなと思ったし凄いなぁやっぱ真似できないなぁ、でも真似したいなぁ、って毎度思う。

私はそういう表裏がある、心に影を落としていて光の方を見つめてしまうようなキャラを生きている高橋一生に物凄く惹かれるので、最初から光にいるキャラを生きているのを見るとムズムズしてしまうんですね。高橋一生は与えられたキャラを全力でそりゃ真摯に生きてるし「こういう人いるな」と思うしリアリティもあるんだけど、余白はどこだろうって探してしまってなかなか見つからないときの痒さが辛いのでウ〜〜ってなっちゃうんですよね。光属性が強くていつでもキラキラしているんじゃなくて、そこに影があったらいいな、と思ってしまう。ただ巧いのでどの作品も観てしまうんですけどね!

高橋一生のお芝居への合う合わないにアップダウンがあるのは自分どうなんだと思うこともあるけどただの一ファン、こちらは娯楽としてあなたという人とそのお芝居と両者との繋がりにいろんな感情分けてもらって喜怒哀楽させてもらうねありがとう、という気持ちでいる。合わないかもというお芝居に対して目を瞑ることもアリかも、と最近になって思えてきた。推しではあるんだけどそこの距離は確保しておきたくて、遠くから凄いなぁって眺めながら豊かさを分けてもらいたい。だからこそ高橋一生には自分の好きなことに思いっきり浸っててほしいしその充実した日々から生まれたものを自分の中に落とし込んで、豊かになった何かをどこかで芝居の形で見せていただける機会があったとするなら凄く幸せだし、とにかく幸せな毎日を送って…と思う。とっちらかったけどとにかく高橋一生が好き!!!ということが言いたいだけのメモです。自己満メモでした!

風髑髏にハマりました。(ネタバレばかり)⑦

⑥の続きです。(ほぼ1ヶ月ぶりなのでスピード感が若干失われてますがご容赦ください!!)

百人斬り完了した途端残りの五人が捨之介(松山ケンイチ)と贋鉄斎(橋本じゅん)のもとに駆け寄ってくるんだけどじゃあこれから天魔王(松山ケンイチ)倒そうって言う前に捨之介が「おい蘭兵衛、蘭兵衛はどうした」って振り返るんですよね、寝返ったとはいえ捨てきれない仲間。「天魔王をかばって死んだ」って沙霧(岸井ゆきの)から聞かされて「てめえの選んだ道だ、今度は迷わず殿のところへ行けよう」と言う捨之介、元々の震え泣きのような喋り方がいっそう際立っていて天をかつて慕った同志として程度の差はあれど通じるものはあったんだな…と思う。蘭兵衛にとっては天のところへ行けるイコール極楽なわけで、捨之介のこの言葉に太夫田中麗奈)はちょっぴり救われたんじゃないかな…と思うね、地獄に落ちた愛する人を自分の手で極楽に送れたんだもんな…

それでですね斬鎧剣片手に天魔王のところに駆けていく捨之介なんですけどね、これほんっとうにかっこいいんですよ頭から爪先まで!!長髪垂らして真っ白の着流し姿で堂々とでも軽やかに立って太く薄いどっしりとした斬鎧剣を片手持ちしてるんだけどさ…これ大河平清盛ファンなら分かると思うんだけどここの捨之介めちゃくちゃ若清盛的なんですよね…初見のとき若清盛と重ね合わせちゃってほんと震えました、あのぶっとい刀を肩に担いでエネルギッシュに駆けてた松山清盛…気になる人は是非観てみてね…!!

(捨之介vs天魔王はね、最終対決だし良かったんですけどね、ワガママ言うと松山ケンイチの影武者(便宜上天魔王の中に入ってる役者さん)、もうちょっと松山ケンイチ感を出してよ!!って思ってました、でもこの場面は1つの山場として良かったですよう…「俺にあのときホンモノを着せなかったのがお前の弱さだ!」というのが後の「天魔王は中身が空っぽの仮面」に通じてくるんだよねぇ)

天魔王を倒してまた五人が駆けつけてきてくれるんだけど自分が敵を引きつけるからみんなは逃げろ、って言う捨之介に「嫌だ!捨之介も一緒だ!」って言って聞かない沙霧ほんとうに好き…初恋的な恋愛感情はそこにあったんだとは思うけどそう想像できる程度であるというだけで、なによりも人として捨之介が好きなんだ!という感じが髑髏城に合ってていいよねぇ…岸井ゆきのver.沙霧大好きですね、色っぽい蘭兵衛×太夫と対照的でバランスとして最高です。それを聞いた捨之介がドギマギするでもなく「この髑髏城みんなで生きて抜け出してぇ、また会うぜぇ〜?」ってニヤッとしながら構えるのもあ゛〜〜〜〜カッコいいなぁ………ってなりましたねぇ…

途端に徳川兵が雪崩れ込んできて戦いながら脱出して小川のほとりまで行くわけだけど、ここは本当に引き込まれて震えて身体が硬直して瞬きもできず感激して目がうるうるしてしまった場面なのでずーっと忘れらんないです。何度見てもここでぶわぁ!って鳥肌が立つ。雨がザーーッと降るんですよ、降りしきる雨の中で薄暗い中で七人が各々の方法で戦うんですけどここゲキ×シネで編集したからこそだと思うんだけどスローになっててさ…それで風髑髏のテーマが重々しく「ダーーンダダダダンダンダダダダーーン」って流れててさ…1人1人がクローズアップされてみんな必死の形相で戦ってて、黒い画面の上から灰色の岩のようなものが画面いっぱいに降りてきて、見上げたら七人の黒い影が降りてきて……岩の上でかっこよく決めて立ってる七人の無敵らしい影がドォン!!って表れるんですね…雨雲の下でね…しかもその瞬間に雷みたいな音がドォォォン!!!!って響き渡って七人がバババ!って照らされるんですよ………かっこよすぎて何か大変なものを見ているような多幸感でもうこのシーンの余韻が本当にすごい。

一気に静かになったと思えばピチャピチャ水の音が聞こえて、小川のほとりで捨之介が三つ葉葵の旗印の兵たちに取り囲まれてる画に変わるんですよね。この切り替えもすごい。天魔王が「地の男こそが天魔王」と噂を流して罠に引っかかってしまった捨之介だけどこの事実を聞いた捨之介、「斜に構えたこの俺の、ここが命の捨て〜所かぃ!」とここでも泣き笑いのようだしその目を細めてニコッと辛そうに笑うような表情のまま家康(生瀬勝久)に「この首渡せばもーう無駄な血流させねえ、そう約束できますかぃ?」と詰め寄る捨之介、自分の命よりもよっぽど大勢の命を救いたいからこその渾身の願いだし家康も家康で無界屋のこともおえまのこともあるから硬い顔で「約束しよう」と言ったんだろうな〜と思った。あれは家康にとっても本気の約束だったんだな〜と。生瀬さん好き…

大人しく縄にかけられる捨之介だけど「お待ちください!!」ってとりわけ大きな声で呼び止めて天魔王の仮面を手に現れた沙霧、「捨之介が天魔王でないことはお殿様だってよぉ〜〜〜〜くご存知のはず!なのになぜ、捨之介に縄をかけますか!!どうでも首が欲しいんなら、どうでも首が欲しいんなら!この仮面をお持ち帰りください!」と必死に必死に訴えててさ……捨之介を本っ当に死なせたくないんだなっていう意思の固さが伝わってくるし「もう誰かを犠牲にして生きるのは嫌なんだ!」っていう沙霧の強い声が蘇ってくるね。家康が「空っぽの、仮面か」「確かにこの仮面が天魔王なのかもしれんな」と言ったけど信長や蘭兵衛や捨之介や誰かの陰に隠れ誰かの笠を被ってコソコソしてなきゃ生きていけない、自分の意思を示せないような「空っぽ」でいつも「仮面」な人間こそが天魔王なのだ、として狸親父としては納得したのかもしれない。風髑髏は家康が深みのある人物に描かれててほんと好きなんですよ〜〜…!縄を解かれた捨之介を確認した沙霧の満面の笑みの「金、五百枚!!」もキラッキラしててかわいかったし後ろで見てた兵庫(山本圭哉)たちも「俺も聞いたぜ、どっかのお侍さまが確かにそう言ってたな」ってトボけるフリして五百枚!ってハモるの最高だしやーい家康してやったり!って気分になってほんとに気持ち良かったね〜、沙霧が「もう一つお願いが」って言った時には「なんじゃ」ってにこにこしてたのに金五百枚!ってなった途端「おぬしらぁ!」ってすごい形相になる家康も楽しいしすぐに優しくカラカラと笑って「半蔵」「構わん」と五百枚を七人に取らせる家康、器広い大好き〜!!ってなったしこの後の「二度とわしの前に顔を見せるでない!」も不愉快だからとかじゃなくて見つかったら次は命がどうなるか分からないからしっかり姿を隠せよ、という優しさでしかなくてさ…「髑髏城はわしがもらうぞ。ここを我らが居城とする。いずれ関東が京、大阪、そして日の本を飲み食らってやる。そうでもせねばここに眠る魔王の魂を封じることはできんだろう」のセリフ、魔王だけじゃなくて無界の皆の魂も救いたいから言えたセリフだったんだろうし家康の心にはおえまがずっと残り続けるんだろうな…という気がした。トーンを上げての「馬引けぃ!」もカラッとしててかっこよかった!

 

続く

【ネタバレ】プロメアのリオくんに骨抜きにされました

プロメアを観ました。松山ケンイチ早乙女太一目当てで観に行った当作、声優陣の声のお芝居も当然の如く素晴らしかったわけですが物語とキャラが良すぎて作品そのものに惚れてます。まあそりゃあそうでしょう、向井理目当てで観に行った風髑髏で脚本と松山ケンイチに骨抜きにされてそのまま髑髏城シリーズ虱潰し的に週2ペースで観てしまったくらい中島かずきさんは私的にどハマり脚本家様だったのですから。べらんめえ調で一直線バカなガロ・ティモスも心の闇が深くその胸板に愛憎全部押し殺してるクレイ・フォーサイトも好きなんだけどなにってリオ・フォーティアが罪深すぎないかな大好き…って思ってます(全員フルネームで言いたいのはご愛嬌)。私は大人びた少年(心は綺麗)or少年のままな大人(ただし酸いも甘いも噛み分けた後の境地)が大好きなんですがリオくんは圧倒的前者に当てはまって大好きオブ大好きです。属種としてはクリストファー・ロビンくまのプーさん)と同じですかね、よく見りゃ髪型もちょっと似てるか。リオは髪が黄緑で線がほっっそい非現実的な概念っぽいところも遠くて遠くて滾ってしまうしとにかく顔が綺麗すぎて傷つけられない。ここまでリオくんのビジュアルが好きというお話です。でもそれだけじゃないんだなリオくんの崇高な誇りとか仲間を思う気持ち、虐げられた者としての屈辱に必死に耐え自らを律するそのパワー、ひたすらに属性が月。背負ったものが重すぎてリオの放つ月光が凄まじくていつまでも泣けるほどにリオが好きですね、好き…

別にリオ単体が好きなわけじゃなくて(リオ単体も好きなんだけど)脚本というか創り出された世界観がはちゃめちゃに好きだし盛り込まれたメッセージと巧さにいちいち唸ってる。さっきも触れたけどリオが虐げられた苦しみにじっと耐えるところ。洞窟の中で瀕死のシーマちゃん(シーマってギリシャ語で犠牲者なんだってね、やばい)に炎を吹き込むも結局助からなかったときのリオの無力といった表情がリオの苦心を逆に物語っているなと思った。ガロが気付いたように差別される人々に対し非難の目を向けるのは当然の原理だとしても浅薄だし、虐げられた側の立場にしっかり立って弱さではなくその強さも知れる良い機会だったのではないかと思ったり。リオたちバーニッシュがただ突然変異だというだけなのに暗い洞窟の中にひっそりと身を隠し暮らさなきゃいけないというのも見ていてかなりこたえた(追記:マッドバーニッシュがかなり破茶滅茶にその力を悪用して街や人を焼いてたことがリオ編で描かれていたのでそれを考慮するとこの差別=世間からの非難の目は当然のものだとは思うけれど、でもそれをどうにかバーニッシュが安心して暮らせるように逃げ隠れながらリーダーとして考える賢いリオくんが好き)。リオがあまりに素敵で愛すべき人物として描かれているからこそリオのように差別された人々の苦しみも屈辱も疑問もスッと入ってくるような気がする。

あともう1つすごく印象的なシーンがあって、まあ最後なんだけども、完全燃焼の炎の色は水色なんですよね…ここまでのシーンで使われた水色って全部氷だったじゃないですか、だから「消火」という意味合いを兼ねた「水色の炎」なのかなと思ったら、完全燃焼だと温度が高いから炎水色なんじゃん!!!って思ってクワァァ…ってなりました(小学校の理科でやった!)。水色の炎は最強、というのはどこかガロ(バニレ=消火=氷=水色)とリオ(マドバ=炎)の合わさった力(つまり人種の境を超えた力、とも取れる)こそが最強、といった意味合いのようで顔を覆ってしまった。「全て燃やし尽くそう。君の燃える火消し魂が必要なんだ」とマドバの親玉であるリオが言う意味がここにあるなって思った(誰より強いバーニッシュフレア×誰より熱い火消し魂)。ガロがいるからこそ出せる水色の炎。ガロデリオンの真骨頂は水色の炎で、つまり完全燃焼。ガロとリオは2人で1つになるとき完全燃焼できるし、この2人は最強だぁ…って思わせてくれたしガロもリオも大好きだし鮮やかなで綺麗で幸せで明るい水色が街を覆っていく爽快感がたまらなくて胸がすうっと感動する素敵なエンディングだったと思う(リミスリ(THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY)のラストでも同じような感覚に陥った)。とにかくプロメアが大好きだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜リオもガロも大好きだ〜〜〜〜!!!!!!!という感想殴り書きでした。寝てないもので読み辛いのは許してください。寝ます。

 

追記

プロメアのこと考えすぎて拗らせてプロメアとリオのプラトニックな関係に思いを馳せてるのでそれはツイッターに吐きますね!

風髑髏にハマりました。(ネタバレばかり)⑥

⑤の続きです(更新めちゃめちゃ遅れたので新鮮味に欠けるのはご容赦ください)。

 

舞台は一変して天守閣、蘭丸の側に急遽現れ牢を抜け出したことを飄々と喋る捨之介(松山ケンイチ)に思われたけど空気を変えたように「ならば、どうするというのじゃ」と重みのある声で言い目をギロっとキツく輝かせた彼は捨之介の格好をしながらも明らかに天魔王のそれで、あ〜この捨之介と天魔王の目つきの違いはアイメイクじゃなくて松山ケンイチの技量なんだ、って思い知ってますます末恐ろしい。天魔王だと分かってから進軍に息巻く蘭丸(向井理)に対して「この戦は負けじゃ」と急に蘭丸の予想せぬ事実を突きつける天魔王(松山ケンイチ)の至って冷静な顔がまた良い。自分が指揮官なのに知らされてなくて狼狽ながらも「俺1人でも」と言う蘭丸はまだ天魔王を信じてたけど「それは困る、何故ならお前の死に場所はここだからじゃ」と目をひん剥き刀を振り下ろす天魔王心底悪い人で好き。天魔王の奥でニヤリと笑ってる瞬尾の「自分は天魔王の信頼を得ていてバディなんだ」といった表情もめちゃくちゃ良かったしゾクっとした。でも天魔王は蘭丸と死闘を繰り広げる中でいきなり瞬尾に刀を向けるんですよ、そのときの瞬尾の「天魔王様…?」という信じられないと言う顔、そして「俺が逃げ出したという事実を知る者は少ないほどよい」と言う天魔王の言葉に「天魔王様…」と悟ったように覚悟を決め天魔王からの一撃を待つ瞬尾にやられた。どんだけ天魔王に捧げたんだこの人は…という感じ、瞬尾にとっちゃ天魔王がまさに蘭丸達にとっての信長だったんだな。そしてこの主人の為なら自分の死をも厭わない女性既視感あるなと思ったらるろうに剣心の駒形由美(高橋メアリージュン)だな。めちゃくちゃフラッシュバックした。とにかく風はこの瞬尾が好きです。

 

捨之介の格好をした天魔王が蘭丸にトドメを指したところに現れた6人はもちろん天魔王を捨之介と思うわけだけど殺された瞬尾を見て「捨之介は女を絶対に殺さない、たとえ自分が殺されようとね!」と確信する沙霧(岸井ゆきの)カッコいいし流石だし伏線回収ありがとう!!最初は「何言ってんだ沙霧〜」と捨之介ぶる天魔王だけど見破られた瞬間目の色変えて6人に斬り込むのも鳥肌だし風を感じるし好き。太夫田中麗奈)が輪胴轟雷筒で天魔王を撃ち抜こうとするわけだけど息耐えたはずの蘭丸がバッと天魔王を庇って弾丸を一身に受けるその辛そうな表情!!!!「勘違いするな、ここでお前を見殺しにすれば俺はお前や光秀と一緒になってしまう。それだけは御免だ!!」とゼェハァしながら叫んで天魔王を睨む蘭丸、裏切りの愚かさや罪深さを一番背負っていたしそこには信長を見捨てて生き延びている形になっていた自分への恨みもあったのでは。「愚かな奴め」と言い残し逃げ去る天魔王に対し居残る蘭丸…!!そしてここからです太夫は「蘭兵衛、お前は最期まで…!!!」と辛そうだし「所詮外道だ」と瀕死の状態で立ち上がりフッと笑う蘭丸はまさに森蘭丸だし死を目前にした男の強さ儚さ脆さ神々しさを持ち合わせていてドキドキしてしまった。そこから両手をガバッと広げ「来い!!太夫!!!!!」と最期の力を振り絞って太夫だけを見つめて叫ぶ蘭丸とそれに応えてぶっ放す太夫は間違いなく2人だけの空間にいたし愛があったしこれは救済なんだとひしひしと感じられた。素敵なシーンだった。蘭丸が今度こそ息耐えて、太夫が駆け寄り蘭丸の頰を何度も何度も打つ様子は痛々しく辛く、これを優しくも強く制する兵庫(山本圭哉)も漢だなと思った。

 

そして舞台は変わって感情を封じられ偽の天魔の鎧を着せられた(今度は本当の)捨之介を6人が無事助けた後のシーンは最高にお待ちかねですよ、捨之介&贋鉄斎(橋本じゅん)バディが光る!!百人斬りですよ、ここは風髑髏の中でも最高に好きな場面ですね、なにってこの2人の相性が本当に良いうえかっこいい!!!鉄騎隊だらけの空間に斬りこもうとする2人なわけだけど登場の仕方がイカしすぎてました。動く蕎麦打ち台に「そば」と書かれた若草色の暖簾をつけて登場する贋鉄斎の後ろからヒョイっと顔をだして「やってる?」と軽〜く伺ってから颯爽と舞台に登場して一気に兵達をバシバシ斬っていく捨之介、抜け感から来る飾らないかっこよさと爽快感と面白さで感情が交錯しまくって頭ガンと殴られたように面食らって骨抜きにされた。刀振り回して斬って斬って、刀のキレが悪くなったら贋鉄斎の方に投げて贋鉄斎からまた違う刀を投げられるわけだけど贋鉄斎も蕎麦打ち台でギショギショ刀を研ぎながらスルスルと移動するんです、滑稽なようなカッコいいような、もう分からないけど伏線回収と発想の素晴らしさと面白さで心底楽しくってずっとワクワクしてた。もしこれが応援上映だったなら間違いなく「無理…」って声漏らしてる。捨之介と贋鉄斎の共同プレイほんとに素晴らしかったし最後の1人は贋鉄斎が研いだばかりの刀をキャッチして粘ったけど結局捨之介にやられて百人斬りが完了しちゃってて、とにかく凄くてヤバくて感情ぐっちゃぐちゃで大変だった。ここは2人の絶妙な軽さが存分に活きてて大好きです!!!

 

続く

風髑髏にハマりました。(ネタバレだらけ)⑤

④の続きです。

髑髏城に侵入した6人、まずは沙霧(岸井ゆきの)&三五ペアですよ。2人で髑髏城を抜け出した前科があるからさぞ相性も良いのだろうと思いきやうっかり髑髏党に見つかってしまった2人ね。三五の「俺は裏切ってばかりで戦ったことがないので自分でも己の力がどれくらいかよく分からない。手加減などという小技は通用しない。心してかかってこいっ」からの「俺ってばものすごく弱いじゃないかー!!」、この件は流石三五。からの「申し訳ございませんでした!!」と安定の裏切り、そして狸に目潰しさせる三五を見て三五はコメディ要素だなと改めて。「沙霧おまえ俺が裏切ると思っただろ」「その予想を全力で裏切ったんだ!」と言う三五、魅せたね〜!って感じ。

続いて太夫田中麗奈)&兵庫(山内圭哉)ペア。猿翁の指揮のもと鉄騎兵達が雑賀の銃を太夫めがけて打ち放った瞬間登場し弾丸を一身に受ける兵庫ね!!!そしてお腹の磁石にくっついた弾をポロポロ払い落とす兵庫不覚にもかっこいい。贋鉄斎(橋本じゅん)も登場し種明かしして磁石を捨てて笑うも雑賀の銃は二連発だからもう一度打たれる、絶対絶命じゃんこの3人どうなってしまうの…!!!って思った瞬間舞台の明かりが暗くなって流れるナレーション。「そのとき、兵庫の髪飾りが猫じゃらしのように見えた。」猿翁の腕からするりと抜けて兵庫の方にスローモーションでジャンプする猿翁の猫(スケキヨ)、「スケキヨ〜〜!」と猫を追う猿翁。この雑すぎる必死の一手みたいな仕掛けに何度見ても笑っちゃう、めちゃくちゃアリです(好き)。兵庫の方に飛び出して行ったんだから当然猿翁は銃の的になるわけで、「スケキヨは、無事でしたか…」と言って倒れる猿翁、ごめんけどめちゃくちゃ面白かった。

1人兵庫はこのあと現れた蛇眼と戦うけどここも面白かったね、蛇眼の鎌鼬の仕組みがバレバレだから2人は正々堂々刀で戦うわけだけど兵庫が肩にかけた長い鞘とは裏腹にポン!!って音立てて抜いた刀のなんと短いことね、蛇眼の「なんだその刀は」に対して「うるせえうるせえ〜〜うるせえ〜研いだらこんな短くなっちまったんだよ〜」の声の調子と大きさのバランス感が絶妙で山内圭哉好き。戦うときも何度も兵庫が有利になるのに「もらった!」って言ってとどめを刺そうとしても短いから届かないし、それが何度も続くし、しまいには刀をヒョイヒョイ邪眼の近くに晒して「オ〜〜イ」「ウ〜〜イ」って小学生みたいな脅しかける兵庫めちゃくちゃ好き。でもやっぱ不利になって危ない兵庫だけどここで突然のアップテンポミュージック、何が起こるかと思いきやその瞬間ダッシュで「鎌使いなら村一番だに!!!」って言いながら現れる磯平ね、突然すぎるけどタイミング良いし間違いなく見せ場。「これを使うだに!」って兵庫に鎌を投げたときの兵庫の「これは、マイ鎌」にも笑うし「鎌はおらたちの魂だに!」と言う磯平と2人で蛇眼を破茶滅茶にするの斬新すぎて楽しい。戦いながらなんか足に細工してるなと思ったら足に鎌を片方とりつけて手足両方使って戦うしほんとなにやってんのって思ったら「悪い稲を根こそぎ刈る。旋風稲刈剣!!!」の決め台詞ね!!面白すぎるけどかっこよかった、プライド高そうな蛇眼が鎌に負けるのもシンプルに面白い。でもそのかっこよさに浸る間も無く刀を放っぽってた兵庫の頭をハンマーでガツンと殴る贋鉄斎、オチとして完璧すぎた。

 

追記

どこのタイミングだったか、髑髏城に入った家康(生瀬勝久)が髑髏城内で奔走する6人を見て「あのバカども…!」と言うシーン、完全に殿で少し萌えました。

 

続く